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新ねこバス新聞 別刷

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    旧ねこバス新聞時代から続く、新ねこバス新聞の別刷。こちらより、もっと軽いことをマイペースで書いていく予定です。ただし、無茶苦茶更新頻度低い(笑)
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【追憶】ドイツで過ごした幼少時の追憶

2014年11月 3日 (月)

NO.900 創刊900号~私は静岡生まれの熊本人です

このブログ、いつの間にか創刊900号を迎えたヽ(´▽`)/

ここまで続けられたのも、読者のみなさんのおかげ、ありがとうございます!

ところで建前では匿名で管理&運営しているこのブログだけど、フェイスブックからリンクを貼っているので、フェイスブックのお友達は私の実名を知っていますよね。

でも、私のことを詳しく知っているかな?

ほとんどの方々が「知らない」と思います。。。

私は、静岡県の伊豆地方で生まれ育ちました。

両親ともに熊本市出身なので、DNA的には100%「熊本人」ですけどね。

途中、3歳から小学2年生の途中までの4年半、父親の仕事の都合で西ドイツ(現:ドイツ)のデュッセルドルフで暮らし、日本人幼稚園&日本人学校に通園通学しました。

■デュッセルドルフ:ウィキペディアより
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95

デュッセルドルフは、日本人駐在員とその家族が、ヨーロッパの中でも非常に多い街です。

日本に帰国したとき、転校先の小学校で「お前、アメリカ人なの?」と言われ続けました。

子供の世界では、帰国子女=アメリカ人、なのでしょうね(笑)

中学、高校とも地元伊豆の学校に進み、大学は地元から東京のキャンパスまで東海道新幹線で通学していました。

別の大学に進学した高校の同級生と、新幹線の車内で遭遇することもしばしば。

就職先は福岡市に本社を構えるIT企業。

社会人になって初めて、ひとり暮らしを始めました。

(本当の自由が手に入った・・・)

ところで、どうして福岡の会社に入ったかって?

DNAが九州人なので、九州一の都会で暮らしてみたいと思ったから。

それでも休日は、いろんな遊びもしたし、勉強もしたし、恋もしました。

とにかく、福岡の天神は刺激のある、若者の多い街でしたね。

週末になると九州各地、広島以西の中国地方から高速バスが切れ目なく天神のバスセンターに到着し、若者を中心に多くの乗客を吐き出していました。

そうこうするうち、20年以上前の当時流行っていたパソコン通信で知り合った三重の女性と遠距離恋愛に陥ってしまい、私が会社を退職して三重に渡り結婚しました。

都会の生活から、伊豆に似た三重の田舎生活への「チェンジ」は、案外簡単でした。

関西弁風の言葉を話す三重の「言葉の壁」があったけど。

それに田舎とは言え、近くには三大都市のひとつ、名古屋があるので、それも嬉しかったな。

週末の名古屋に、福岡天神ほどの活気はないけど、その代わり、西へ東へと向かう「東海道新幹線」が頻繁に発着する名古屋駅の姿に「三大都市」のエネルギーを感じることができました。

そして、今の仕事場に転職したわけです。

採用面接時に伝えた、私の希望どおりの職場に配属されました(^^♪

その後人事異動があり、躁うつ病を発症し、パワーハラスメント(パワハラ)にも遭い、それとは関係なくいろいろあって離婚し、現在に至るです。

(過重労働やパワハラは赦せない!)

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

ところで、フェイスブック経由でブログを読んでくださっている方は、たまに、ごく簡単で結構ですので、フェイスブックにコメントをくださると嬉しく思います。

また、フェイスブックをされていない方は、これまでどおりブログにコメントを下されば嬉しいですね~

やはり、コメントがあるのとないのとではライターである私の「やる気」が変わってくるんですよ。

皆さん、お忙しいのに無理言ってごめんなさいm(__)m

フェイスブックでブログ「ねこバス新聞 社説」を紹介するようになってから、アクセス数が格段に増えたものの、コメントがないので。

これって、私的には「不気味」なんですよね。沈黙は怖い。。。

※以前、ブログの毎日更新は止めると宣言したけど、何だかんだで結局毎日更新しています。でも、結果として毎日更新になっているだけなので、建前は「不定期更新」です。

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2014年6月 7日 (土)

NO.782 会社に届いた、鉄道少年&帰国子女からの年賀状

私は、全国の鉄道を乗りつくすという、壮大な夢を持っている。

若い頃は、時間はたっぷりあったけどお金はなく、そして現在は、時間はなくて、お金もない(苦笑)

それでも、コツコツ旅行している。

最近は、サボリ気味であるが。。。

 

 

20年くらい前、まだ私が福岡市内の会社勤めをしている頃、下関(山口県)に向かう山陽本線下り普通列車内で、小型の時刻表をめくる、一人旅風の少年を見かけた。

(この子も、鉄道少年みたいだな・・・)

少年の隣りに空席があったので私はそこに移動して、声をかけてみた。

少年はとても礼儀正しく挨拶をして、そして自己紹介してくれた。

私も、もちろん自己紹介して会社の名刺を渡した。

いろいろ話し込むと、彼が「同好の士」(=鉄道マニア)というだけでなく、何と、ヨーロッパからの帰国子女だという共通点も見つかった。

彼はオランダ、私は旧西ドイツからの帰国子女。

そして彼はアムステルダムの、私はデュッセルドルフの日本人学校に通っていた。

オランダとドイツとは隣国であり、私が暮らしていたデュッセルドルフは、オランダとの国境に近く、しかもオランダは当時物価が安かったので、食料品などの買い出しに、しばしば「アウトバーン」(速度無制限、料金無料の高速道路)でオランダへ出かけていた。

一気に15年ほどタイムスリップしたように思えてきて、互いに話が弾んだ。

それにしても、礼儀正しい少年だった。

彼は、まだ中学生だというのに、きちんと丁寧語で話した。

確かに、日本人学校は大企業や大使館、領事館などに勤める親の子弟が通うので、語弊はあるが、それなりの、躾が行き届いた常識ある人が多い傾向にはある。

それでも、今どき(=20年前の当時)赤の他人にこれだけマナーよろしく接するとは、やはり親御さんの躾が行き届いているのと、何と言っても本人がきちんとした人間なのだなと感心しきりだった。

鉄道の話は当然ながら、日本人学校の話、オランダの話、その他で盛り上がった。

やがて、列車は終点下関駅に到着して、彼と別れた。

 

 

翌年、正月明けに出勤すると、私あてに渡された年賀状の中に、拙い(つたない)ながらも一所懸命に書かれた年賀状があった。

そう、昨年、山陽本線の電車内で会った帰国子女の中学生からだった。

内容としては、年賀状というよりも「御礼状」だった。

「旅行中は大変お世話になりました。無事帰宅できました」

そして、親御さんからの御礼の挨拶文も書き添えられていた。

 

 

日本人学校といっても、私が入学した40年ほど前の当時は、日本人学校の所在地は欧米が中心だった。

そして、そこに通うのは、自分で言うのは引けるけど分かりやすく言えば「エリートの子供」だけだった。

ところが、今はアジア中心に世界中に日本人学校があり、必ずしもエリート層だけでなく、それ以外の子弟も日本人学校に通う時代になった。

日本はグローバル社会から取り残されているとか、何とか言われ続けているけれども、長い目で見れば、やはり「国際化」は進んでいると思う。

アジア中心でもいいじゃないか。

日本だって、アジアの国の仲間なんだから。

 

※私がドイツの日本人学校に通っていた時、あえて現地のドイツ人小学校にお子さんを通わせていた家庭があったけど、やはり「現地に永住」しない限り、日本人学校に通わせた方がいいと思った。
我が子をドイツ語(+ネイティブ並みの英語)の環境に放り込むなんて、親の身勝手だと思う。
ただし、大学受験で「帰国子女枠」を狙うなら、日本人学校通いは対象外。

 

■文部科学省「海外にある日本人学校を紹介します」サイトhttp://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/006/001/001.htm

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2013年9月 3日 (火)

NO.571 【ドイツでの思い出 後編】日本人学校小学部入学~帰国

本日未明、ねこバス新聞のアクセスカウンターが8万カウンターを突破しました。
ブログを始めて1万カウンターに到達するのに半年。
7万カウンターに到達した7月中旬から今日まで約1か月半。
読者のアクセスが増えているのは嬉しい限りです。
改めて、皆さんのおかげでねこバス新聞を続けてこられたことに感謝します<(_ _)>

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

ドイツ・デュッセルドルフ滞在丸3年の1977年4月、市内のオーバーカッセル地区という、ライン川にほど近いアパート(日本語で言えばマンション)に引っ越して日本人学校への通学を始めた。
通学の便を考えて引っ越したわけである。
それに、家の周囲には日本人が少なからず暮らしていた。

入学式。ピカピカの1年生のランドセル、と言っても日本のランドセルとは形状が違う、どちらかというとリュックサックに近いものであったが、いろんなタイプの背負い鞄を各々が背負って通学していた。

同級生は東京の都市銀行や商社、各種大手メーカーに勤める父親の子供が多かった。
いわゆる、お坊ちゃまやお嬢ちゃまですね。

一人だけいた大阪の子の関西弁が目立っていた。関西弁だとお坊ちゃまという感じが今一つしなかったけど、やはりお坊ちゃまなんだと思うよ。

ところで学校へは、私一人でバスで通った。

また、友達から地元ドイツ人の少年サッカークラブに入ろうと誘われたので入ったけど、これはサッカーが苦手な私には堪えた。
グラウンドをボールを蹴りながら5周、10周させられるだけで疲れてしまった。

それでも、友達と一緒に遊ぶのは楽しかった。

家の近くの公園で友達と野球をして遊んでいると、地元ドイツ人が珍しそうにその様子を見ていたこともあった。

月日はあっという間に流れ、小学2年生の1978年9月、父から「日本に戻ることになった」と言われた。

物心ついたときにはドイツにいた私には、日本の記憶がほとんどない。

「帰国」というより「出国」に近い感覚だった。そう、故郷ドイツを離れるんだと。

相当両親に抵抗し、泣きわめいた記憶があるけど、無駄なレジスタンスだった。

ドイツに在住していた4年半の間に、ヨーロッパ主要国でなぜかイギリスだけ観光したことがなかったので、ロンドンで数日観光してから帰国することになった。

ドイツにやってきたときは3歳8か月の幼児だったので、あまり記憶に残っていないけど、帰りの飛行機はロンドン発アンカレッジ(米アラスカ州)経由成田行きのJALだった。

当時はソ連のシベリア上空の飛行が認められておらず、故に日本とヨーロッパを結ぶ直行便はなかった(それだけの長距離を無給油で飛べる飛行機もなかった)。アンカレッジを経由するか、モスクワを経由するか(許可される便数が少ない)しかなく、ということでアンカレッジは日本とヨーロッパ、アメリカ大陸を結ぶ北の十字路として機能していた。

機内食は、曖昧な記憶だけどロンドンからアンカレッジまで3回、アンカレッジから成田まで1回の、計4回出た。

私はお漏らしの癖が治っておらず、成田着陸直前に飛行機の中でやらかしてしまった(汗)

完成したばかりの、出来立てほやほやの成田空港には、伯父が迎えに来ていた。

そのまま銀座の日航ホテルに泊まった。。。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

この後も国内であちこち転校したり、自分の意志で引っ越したりしたけど、それが不利になることなんて一切なかった。

むしろ、誰もができない体験ができたと思っているし、そういう環境で私を育ててくれた両親には感謝している。

(デュッセルドルフ日本人学校)
http://www.jisd.de/

(YouTubeから拝借しました・・・私が通学していたときの面影は残っています)

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2013年9月 2日 (月)

NO.570 【ドイツでの思い出 前編】もう40年も前なのか・・・

今日から学校という皆さんも多いでしょう。そんなことを考えていたら、急に40年前の幼少時代にタイムスリップしたくなったので、ご容赦のほどを・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

1974年(昭和49年)4月、当時3歳9か月の私と1歳3か月の弟は、母に連れられて羽田空港からJAL(日本航空)の飛行機に乗ってヨーロッパへと向かった。

ここからは記憶が曖昧だが、おそらくパリからルフトハンザの飛行機に乗り換え、旧西ドイツのデュッセルドルフへ到着した。

デュッセルドルフってどこ?なんて言っている人は、ある日突然会社の上司から「デュッセルドルフ駐在を命ずる」なんて言われてキョトン顔になり、せっかくのチャンスを棒に振りかねないので、今すぐ子供の地図帳でもいいから位置くらい調べてみたほうがいいですよ。

ドイツの西北部、フランクフルトやケルンの北、オランダとの境、分かりやすく言えばルール工業地帯にある商業都市です。日本企業の駐在員とその家族を中心に日本人が5千人以上暮らしています。

それはともかく、ひと足先にデュッセルドルフで仕事をしていたエンジニアの父と、異国の地で暮らすことになった。

「ベンラート」という、市の中心から少し離れた閑静な住宅街での生活が始まった。

ここでは、約3年間暮らした。

近くに公園があり、池には黒鳥が群れていたのを鮮明に記憶している。

クリスチャン系の日本人幼稚園に入園した。

シスターは、ドイツ語でシュベスターと言うが、老若2人の日本人女性シュベスターが運営していた。

デュッセルドルフへやってきてから幼稚園卒園までの3年間は、あいにくほとんど記憶が残っていない。

父の休暇中にはヨーロッパ中を旅行したとのことだが、スイスの登山鉄道に乗ったこと、ギリシャでは弟が船でお漏らししたこと^^、ドイツやオランダの高速道路の道端に車を止め、森に分け入りワラビなどの山菜取りをしたことくらいしか覚えていない。

もうひとつ。
デュッセルドルフの肉屋さんで量り売りしているいろんな種類のハムは本当に美味しかった♪

続きは次回。

(公式サイト:デュッセルドルフ(一部日本語、他英語、ドイツ語)
http://www.duesseldorf.de/ja/index.shtml

(ウィキペディア:デュッセルドルフ(日本語))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95

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2013年6月 1日 (土)

NO.478 私は、恵まれて育ったのかも・・・

私は、幼少時5年間、ドイツで過ごした帰国子女です。

父親のドイツ転勤に伴い、家族も付いていきました。

当時3歳、帰国時8歳、小学2年生。

父親の休暇の時は、欧州各国を旅行しました。西ヨーロッパのほとんどの国を訪ねました。

アルプスにも登ったし(登山電車でね)、凱旋門も、オランダの水車も、エッフェル塔も、マジョルカ島も、マドリッドの闘牛も、ピサの斜塔も、パルテノン神殿も・・・数え上げればきりがないくらいあちこち旅行した。。。本当に贅沢ものです。

中でもパリは、国境越えがあるとはいえ近かったので頻繁に出かけたし、食料品の買い出しは、国境を越えて、ドイツより物価の安いオランダへ行くこともありました。
(オランダは、パリよりもさらに近かった)

ドイツでは日本人幼稚園と日本人学校に通ったけど、同じような、やはり父親が大企業や都市銀行の駐在員という子供が多かった。

語弊があるかもしれないが、私を含めて大企業駐在員の子供は、苦労知らずの恵まれた環境に育った、国内なら私学に通うような優秀なお嬢さま、お坊ちゃんが多かった。

その中でも、自慢ではないけど私はみんなよりも勉強は出来た。

ドイツ時代の体験は、今にもつながっている。

今でも私は、本当に親しい人たちから「自信家」呼ばわれされることがある。

もちろん、リアルでは「そんなことはない」と否定するけどね。

でも、多少の自信って大事だと思う。

スポーツ選手だって、自信を持てなければ、いい成績を残せないでしょう?

勉強だって、仕事だって、同じこと。

私は誰にも負けない。必ず勝つ!と思うことも、時には必要だと思います。

自信の全くない人間や、逆に空威張りの人間なんかに、誰も安心してついて行けませんよ。

ただ、気をつけてほしいのは、自信を持つのはいいけど、相手をけなしたり、おとしめるようなこと言動は絶対にしてはいけない。

それを配偶者や、子供にしては、下手をすれば人格を破壊することになりますから。

DV、モラハラ、子供の虐待・・・

そういうことは、自分に自信がない弱虫が、八つ当たり的に、あるいはストレス発散のために起こしているのだと私は思う。

それとも、病気で・・・?

とにかく自分の子供には、勉強でもスポーツでも何でもいいから、「誰にも負けない強い武器」というアイテムを、与えられるような教育をしてはいかがでしょうか?

生活が苦しいとしても、子供にかけるお金と、注ぐ愛情だけは、カットしてほしくないですね。

子供が成人したら、きっと恩返ししてくれますよ。

(子供への愛情を注いでこなかった親は、将来子供から捨てられるかもしれません・・・)

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2012年5月30日 (水)

NO.219 私は西ドイツからの帰国子女なの。

私が旧西ドイツのデュッセルドルフで幼少期を過ごしたことはご存じかもしれません。

ところで、肝心なことに筆者の私が以前何を書いたか忘れてしまったので、編集しなおして載せます。新しい読者さんも増えましたし。

私が通っていたのはデュッセルドルフ日本人学校。現地の日本企業や商工会議所などがお金を出し合い、教員は日本国内の公立小中学校からの派遣。

デュッセルドルフ。経済界に詳しくない方にはなじみのない地名ですよね。ルール工業地帯にある経済、商業都市で、以前ほどではないにしてもとにかく日本人が多い街です。ほとんど企業の駐在員とその家族。ヨーロッパにおける日本企業の拠点のひとつなのですよ。
だから日本人が多い。

リンクフリーなので、学校へのリンクを貼らせてもらいました。

 デュッセルドルフ日本人学校ホームページ:http://www.jisd.de/index.html

 校歌はこちら:http://www.jisd.de/about_jisd/outline/koka.html

1977年4月小学部入学から2年生の9月末まで1年半余り日本人学校に在籍していました。

私は、日本で生まれながら物心ついたときから西ドイツにいたため、幼時は日本のことを全く知りませんでした。

勿論、スーパーカーブームや超合金、プラレールやプロ野球選手の話題で友達と盛り上がっていましたけど、日本に「行きたい」とは考えていませんでした。

小学校2年生の秋、日本に帰ることになりました。

父に文句を言いました。ショックで涙が止まりませんでした。

現在、地元のローカルな国際空港から毎日ドイツのフランクフルト直行便が運航されています。

それを見るとやはり、ドイツ時代のことを懐かしく思ってしまいます。

もう一度行きたいドイツ。大人になったのでビアホールでしこたま飲みたいな♪

2012年1月20日 (金)

NO.127 サイン帳

ただいま、離婚に伴い家の片づけをしています。

ハクはパワーがないため、元妻が作業を進める傍で呆然として…

いえいえ、昔なつかしい物の数々を発見して、見入っています。

結婚前に福岡でひとり暮らしていたころ、全国各地を旅した時に撮影した写真。

あれから20年近く経つんだなぁ。

今はなきJR西日本美祢線大嶺支線を走行する写真、広島電鉄の市内電車なども出てきました。

福岡から日帰りで出かけた時に撮りました。

釧路湿原など、北海道の写真も出てきました。

おやおや、これも懐かしい。

サイン帳発見!!!

ドイツのデュッセルドルフから帰国するときに、クラスのみんなに書いてもらいました。

デュッセルドルフ日本人学校

校歌

1978年、小学2年生の9月末まで通っていました。

4年半にわたるドイツ・デュッセルドルフでの生活を終え、帰国することになりました。

あれから30年以上。

みんな元気にしてるのかな?

~にほんのそらと、ドイツのそらを♬

2011年8月 5日 (金)

NO.8 飛行機と高速道路(その3)

コクリコ坂から・・・観に行きたいけど時間がない。

学生さん、生徒さんはお金が高いかもしれませんけど、時間があるだけ羨ましい。

時間もお金もない!
なんて言ってるジブリファンの方!!
まあまあ、そこを何とかやりくりしてみては?

私も努力しますけど、疲れた状態でイビキかいてしまったら周りに迷惑かけるし・・・

では前回の続きです。
今回はドイツが誇る速度無制限の高速道路、アウトバーンです。

詳しく調べたい方はウィキペディアへどうぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3

大陸と海を隔てたイギリスやアイルランドは、日本と同じく左側通行ですが、大陸ヨーロッパ各国は右側通行です。

速度無制限(一部制限区間あり)ということは、フェラーリやポルシェが最高速度で走っても警察に捕まらないということです。

そのかわりマナーがあって、ひたすら飛ばすクルマはいちばん右側の車線を走ります。
150キロ走行の車に300キロで突っ込んだら大事故になるので、遅い車ほど左側の車線を走らねばなりません。

それよりも我が家では、無料の高速

というほうが嬉しかったようです。

よく食料品や日用品の買い出しがてらオランダにドライブに行ってました。
デュッセルドルフからオランダまで本当に近かったので。
それにオランダのほうが物価が安かったのです。

時にはアウトバーンの路肩にクルマを止めて、「わらび」や「ぜんまい」を摘むことも。
ドイツ人やオランダ人は、今はわかりませんけど当時は「食べ物」として認識していなかったので、「何をしているのかな?」と興味深げに聞かれることがよくありました。

取りとめのないない話になりました。
でもこういう視点から「高速無料化」をとらえることもできるのではないでしょうか。
私は「公共交通」愛好家ですけど、「クルマ社会」を否定はしません。
この相反する問題については、後日私見を綴ります。
難しくても逃げないでねdog

それでは、私の思い出の地ドイツ・デュッセルドルフ編の「とりあえず最終回」です。
このブログはこれからも続けますので、よろしくお願いします。
ご意見リクエストお待ちしております。

NO.7 飛行機と高速道路(その2)

読者に「ジブリファン」が多いかもと思い、タイトルに「ジブリ」と加筆しました。
これからジブリも書いていこうと思っているので、皆さんご期待くださいcat

前回に引き続き、その2ということで今回はドイツに住んでいたころの飛行機の思い出です。

地元デュッセルドルフにも国際空港があり、飛ぶだけでなく、空港に飛行機を見に行くこともありました。たまには近くのフランクフルトの空港にも。
さすがにフランクフルトはドイツのルフトハンザ航空の拠点ということで、子供心にも仰天するほど大きかった・・・

当時の、1975年前後のルフトハンザのラインナップは、ボーイング727、737、747、あと記憶にはないのですが707があったような・・・
ギリシャのオリンピック航空なんていうのもいました。
お気に入りの機種はB727で、小学2年生の途中まで通っていた日本人学校では、テスト用紙の裏にいつもルフトハンザの727の絵を描いていました。

でも日本(羽田)との往復は、やっぱり日本航空でした。
パリから、とかロンドンから、とか。
今は貨物専用になった感のあるアンカレッジ経由です。

「アンカレッジ経由」も「モスクワ経由」も、もう死語ですね。
冷戦が終わり、飛行機のペイロード、飛行距離も大幅にアップしたので成田や羽田からの直行便が欧州各地へ多数飛ぶ現在です。

1978年9月、今はなきJALのジャンボで日本に戻ってきました。
出来たてほやほやの成田空港です。

空港では父親の会社から黒塗りの車が迎えに来ていて、仰天しました。
それはさておき、ホテルへ向かう車中で母親に白状しました。

飛行機の中でオモラシしちゃった(T_T)

次回は、アウトバーンをメインとした高速道路について書きますね。

2011年8月 4日 (木)

NO.6 飛行機と高速道路(その1)

みなさまこんにちは。
今回から少しだけシリーズ物にします。

飛行機と言えば、NO.4でも書いたけど、昔、私はヨーロッパの西ドイツに住んでいました。
当時、ヨーロッパ内での移動手段は「飛行機」か「クルマ」でした。
特に西ドイツは速度無制限で通行料金無料のアウトバーンが縦横に張り巡らされていました。
ヒトラーの正の遺産と言っても言い過ぎではなく、戦後西ドイツ、ひいては現在の再統合ドイツ、EUを支える重要なインフラであることは間違いないでしょう。
住んでいたデュッセルドルフからパリまでは本当に近く、測ったことはないけど東京-名古屋よりも距離は短い気がします。
度々両親に連れて行かれる都度、

またパリ行くの?パリなんかよりモナコのほうがいい!!

なんて、今ではありえないゼイタクなことを言っていた子供なのでした・・・

まあ、パリの場合、数回クルマで行った以外、専ら「ヒコーキ」でした。
西欧は狭いので、国内線感覚で頻繁に出かけていた(微かに記憶あり)
・ヴェルサイユ宮殿(全く記憶にない)
・凱旋門・エッフェル塔(観た、昇ったという記憶があるけど、その程度)
・シャンゼリゼ通りのとある喫茶店内での光景(ドイツには少ない黒人の店員さんがいる)
・地下鉄(これは覚えていますよ。何しろ生まれながらの鉄道マニアなので

このことを、成人した私から知った両親は仰天し、ガックリしてしまいました。
でもパリって、お子様には本当につまらないところだったんですよ。

ちなみにモナコにはパリとは別に当時ニース、イタリア旅行を兼ねて1度行きましたdollar

明日は、掘り下げて、当時の飛行機(主にルフトハンザの予定)について綴ります。

ではまた(^_^)/

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